紀乃屋の歴史

1816年(文化13年)~現在

◎1816年(文化13年)~1866年(慶応2年) 文化13年に初代「金蔵」が農業を創業、約200年の歴史を誇る伝統農家が起源。

紀乃屋の歴史

紀乃屋の創業は、現在から遡ること約200年前、江戸幕府第十一代将軍「徳川家斉」の時代にあたる1816年(文化13年)に、紀伊田辺藩の日高郡西岩代村で、 初代「金蔵」が米や野菜などを主とした農業を始めたのが起源とされている。岩代の地名は古く、奈良時代の「万葉集」や平安時代の「熊野参詣記」などに も頻出されており、農業が盛んだった記録が残されているため、実際は1816年以前から農業をおこなっていた可能性はあるものの、古文書や戸籍で記述が残っている歴史上で最も古い人物が「金蔵」である。また、同年1816年8月に二代目となる「清左衛門」が生まれている。

◎1867年(慶応3年)~1901年(明治34年) 約150年前の慶応3年に漁業も創業。三代目「喜平」が半農半漁の土台を築く。

紀乃屋の歴史

初代「金蔵」から二代目「清左衛門」までは農業だけを生業としていたが、清左衛門と妻フジの三男として生まれた三代目「喜平」が、今から約150年前、江 戸幕府第十五代将軍「徳川慶喜」が政権を朝廷に返上した“大政奉還”の同年に あたる1867年(慶応3年)に、紀伊水道近海の磯魚を漁獲する伝統漁法“打ち網 漁”や“地引き網漁”を主とした漁業も創業。先代から受け継いだ農業だけでなく漁業を新たに始めたことにより、三代目「喜平」が紀伊田辺藩の南部地方独特の業態である「半農半漁(生業の半分が農業で半分が漁業)」を確立させた。

◎1902年(明治35年)~1922年(大正11年) 約120年前に紀州南高梅が誕生。四代目「清吉」以降は梅の生産にも力を入れる。

紀乃屋の歴史

明治から大正へと時代が移り変わり、三代目「喜平」と妻シヅの長男として生 まれた四代目「清吉」は、父親である喜平から継承した半農半漁を生業としていたが、今から約120年前の1902年(明治35年)に、紀州上南部村の「高田貞楠」が、梅の苗の中に粒が大きく美しい紅がさす優良種に着眼したことに始まり、南部高校教諭の「竹中勝太郎」によって研究され、最も優れたものを「紀州南高梅」と名付けて発表。現在では“日本一のブランド梅”として知られる紀州南高梅の栽培が紀州南部地域で本格化したことにより、四代目「清吉」以降は梅の栽培生産にも力を入れていくこととなる。

◎1923年(大正12年)~1976年(昭和51年) 五代目「宗次郎」が漁業を拡張、六代目「幹夫」が農業・漁業以外の事業を開始。

紀乃屋の歴史

1923年(大正12年)に、四代目「清吉」と妻ヒサエの次男として生まれた五代 目「宗次郎」は、一時は戦争で出兵するも無事に帰還。帰還後は半農半漁の中でも特に漁業に力を注いだ。「中宗丸」という漁船を造船し、漁師仲間と共に漁業組合を立ち上げ、様々な漁法を学んで伊勢海老や磯魚などの漁獲を生業として精力的に活動。1950年(昭和25年)には貴美代と結婚し、1951年(昭和26 年)には六代目「幹夫」が誕生。六代目「幹夫」は父である宗次郎が注力した漁業だけでなく農業にも力を入れ、さらに駄菓子屋や魚屋、ギフトショップといった農業や漁業以外の商売や事業も展開。1977年(昭和52年)には由美子と結婚し同年12月に七代目「誠」が誕生。

1977年(昭和52年)~現在 七代目「誠」が農業・漁業ともに拡張。法人化して六次産業化の認定も取得。

紀乃屋の歴史

七代目「誠」が漁船の強化や新たな漁獲法に加え、新漁法で漁業をさらに拡大。 漁船も新たに造船して「海誠丸」と名付けた。更に農業も所有農地を拡張し、 紀州南高梅の生産だけでなく仲卸業「双庵」を2009年(平成21年)に立ち上げて成功。強固な事業基盤を構築し2018年(平成30年)に「株式会社紀乃屋」を 設立。同年12月には農林水産省の認定である「六次産業化総合化事業計画認定」を取得し現在に至る。1816年(文化13年)の農業創業、1867年(慶応3年)の漁業創業から約200年もの間、先祖代々継承されてきた“秘伝”とも言える農業の生産技法、漁業の漁獲法は現在でも大切に守られ 継承されています。

紀乃屋系譜図

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